ミシガンのオランダ文化|マルタ・ ヒッキー|ナレッジワールドネットワーク|アクティビティ|ナレッジキャピタル今回の真夏の投稿では、みなさんをアメリカにお連れしたいと思います。アメリカがオランダとなんの関係があるのかと思われるかもしれませんが、実は関係があるのです。ご存じのとおりアメリカは(先住民を除けば)移民の国ですが、オランダ人はこの新しい土地に移住してきた最初の民族のうちのひとつでした。ニューヨークが昔、ニュー・アムステルダムという名前で、1667年までオランダの植民地だったのをご存知の方もいらっしゃるでしょう。現在のアメリカはどうでしょうか? 2014年の統計によると、オランダ系アメリカ人は約440万人います(※1)。オランダ本国の人口がおよそ1700万人であることを考えると、かなりの数だといえます。さて今回はいったいどこに行くのかというと、ミシガン州の都市ホランドにお連れしましょう。きれいで魅力的な街で、いろんな種類の建築物があり、自然が豊かというのが、私のホランドの第一印象です。他の都市と際立って違ったところはありません。だけどよく見てみると、この土地の民族性を確認できる要素がいろいろ目に飛び込んできます。お店のいくつかは窓の外にオランダの国旗を掲げているし、建物や垂れ幕に書かれている多くの名字は間違いなくオランダが起源のものです。ここホランドで生まれたアメリカ人たちにとってオランダ文化はどういう意味を持つのだろうか、オランダ語は話せるのだろうかと、私はわくわくしました。さっそく探索の旅に出ましょう。まず向かったのは、オランダのパン屋兼軽食堂「デ・ボーア(de Boer)」(これもオランダでよくある名字です)。車で近づいていくと、風車が真ん中に描かれた大きな赤、青、白柄の看板が目に入ってきて、オランダの元女王と現王の名前が書かれたオレンジの旗が風に揺らめいていました。まさにオランダ系のお店です。ドアの横には「オランダ人のパン屋一家の4世が、1998年にここでお店を始めました」と書いてあります。中に入ると右側がパン工房とお店、そして左側は軽食堂になっています。店のショーケースに目をやると、特にオランダとは関係がないドーナツやパン菓子が売られていますが、カウンターの奥の棚にはどっしりとしたパンが並べられています。お店はけっこう混んでいましたが、なんとかカウンターの向こうの男性店員の注意を引くことができました。どんなオランダの黒パンを売ってるかなど可能な限り多くの質問を、会計が終わるまでに投げかけてみました。男性は、自分はオランダ人ではなくオランダ語も分からないけれど、オーナーはオランダ人で、オランダ語も話せると教えてくれました。「オーナー一家は定期的にオランダに帰ってるよ」とのことでした。お店にはオーナー以外にはオランダ語が話せる人はいないようです。軽食堂のメニューにはオランダ料理はほとんどなく、あるのはオランダ料理の豆スープとコロッケだけでした。故郷の味と同じか食べ比べできたらと思ったのですが、軽食堂の方に歩いて行くと今日はすでに閉まっていました(ホームページには午後3時まで営業って書いてあったのに!)。私は少しがっかりしながらパンだけ持って店を出ました。それでは次の目的地へ向かいましょう!お次は、オランダからの移民の歴史にまつわる品々を収めているオランダ博物館です。博物館に行くために道を渡ろうとしたら、別のオランダ国旗が目の片隅に飛び込んできました。そこは「ポッピン・ユイス(Poppin Huis)」という名の由緒ある菓子屋で、伝統的なオランダの衣装を身にまとった2人の子供がロゴになっています。今回はさっきより運がありそうです。カウンターで働いている男性の名前はランディーといって、オランダ系3世だといいます。質問をしたら喜んで家族の歴史について語ってくれました。彼の祖父母は1847年にフェニックス号という船に乗ったのですが、この船は火事で破損して沈んでしまったそうです。多くの人々が火事や冷たい水によって命を落としたものの、彼の祖父母はなんとか生き延びてホランドに辿り着くことができたのだそうです。ランディー自身はオランダ語を話せないけれど、オランダ人の血が流れていることからお店の名前にユイスという言葉を入れることにしたと話してくれました。ホランドで生まれた多くのアメリカ人はオランダ語を話せるのか質問すると、話せる人もいくらかはいるが、世代を追うごとにオランダ語の必要性は薄れてきているとのこと。彼の父親はいくらか話せたらしいのですが、彼自身は2~3語ぐらいしか知らないそうです。それでも、ホランドにとって伝統的なオランダ文化は特別な意味を持っています。ホランドにはオランダにまつわる博物館や文化的観光地がいくつもあり、一年を通してさまざまなお祭りも開催されているのです。また、メキシコとラオス出身の住民が増えてきていることから、オランダのイベントと一緒に、それらの文化的行事も行われているそうです!ここホランドの人々は、さまざまな文化を上手に取り入れて楽しむ才能があるということだと思います。私は、オランダとアメリカの味を融合してできた作りたてのオランダ菓子、クッキー風味のケトルコーンを一袋買って、今日オランダ語を話すアメリカ人を見つけるぞという気持ちを胸に、店を後にしました。道の向かいの博物館は、受付の女の子以外は誰もおらず、空っぽでした。ホランド出身か尋ねると、彼女はホランド出身ではなく、オランダ語も全然分からないとのこと。館内の展示品の数はかなり少なめではあるものの、ピクルスで有名なハインツなどのオランダ企業の興味深い白黒写真がいくつか展示されていました。たかだか数世代前の1847年に、オランダ人がここに来て街を築いたのだなと思うと、奇妙な感じがします。次に訪れたのはウィンドミル・アイランド・ガーデンです。ここはオランダ風の公園で、風車と、土産品店が入った小さなオランダ家屋が数軒あり、スタッフは全員伝統的なオランダの民族衣装を着ています。オランダでもなかなか見られない光景なので、これには驚きました! ちょうど結婚式が執り行われていましたが、私はすぐにこの公園の目玉である白鳥という名前を冠した風車「デ・ズワーン(de Zwaan)」に向かいました。そこで行われていたツアーでは、この風車は1964年にこの公園のために、オランダからホランドに運ばれてきものだと、ガイドが説明していました。今でもこの風車は現役で、ここで育てられた花が売られています。チューリップが咲く時期には、風車がチューリップに囲まれた風景を楽しむことができますが、今は緑に覆われ、暑さにやられて死にかけている花もありました。オランダの民族衣装を着た年配の女性に、この公園にオランダ語を話せる人がいるか尋ねると、「今日はいないと思う」という返事が……。確かにこの公園では、伝統的なオランダの風景がかなり厳密に再現されていますが、他には楽しめる要素はなさそうです。新郎新婦がオランダ系だからこの場所を選んだのか、それともこのガーデンが好きだから選んだのか気になります。そして今日の日帰り旅行の最後目的地は、ネリス・オランダ村というオランダのテーマパークです。入り口からまず可愛らしいこのテーマパークは、伝統的なオランダ様式で作られており、各エリアにはそれぞれ異なった役割があります。プレイエリア、農場、チーズ屋、木靴工房、ロウソク工房、デルフト陶器店(デルフトはオランダの陶芸です)、土産品店、子供たちのためのオランダワッフル作りのエリアなどがあり、ここでもスタッフは全員伝統的な民族衣装を身にまとっています。敷地は広々としていて、楽しく歩き回ることができます。テーマパークの真ん中には小さな運河が走っていて、オランダの風景とそっくりです。ネリス・オランダ村は1952年に開業し、ネリス家の人々が販売するチューリップの球根と土産品の直売所として営業していました。観光地として大変人気を博し、そこから発展していったということです。ネリス家は1910年にミシガンに移住してきて以来、ずっと家業を営んでいます。本当にこの場所の歴史は興味深いものです。午後5時に本日最後のクロンペン・ダンスのパフォーマンスが始まると、私はさらに驚いてしまいました。実際にクロンペン・ダンスを見るのは今回が初めてでしたが、私が知っている通りだったのです(グーグルでクロンペン・ダンス(klompendans)と検索しても、あまり多くの情報がでてこないぐらいですよ)。ぜひビデオでご覧になってみてください。ダンスはテーマパークで働く地元の高校生たちが披露してくれました。テーマパークを離れる前に、オランダ語を話すアメリカ人を見つけることができました。来月で65才になるアイクは体の大きなご老人で、木靴工房で民族衣装を着て座っていました。最初はあまり話したくなさそうな雰囲気でしたが、少しだけ粘り強く頑張ってみたら心を開いてくれました。彼は流暢なオランダ語で、4才の時にアメリカに移住して以来ずっとここに住んでいると話してくれました。興味深いことに、彼の話すオランダ語はとても強い田舎訛りがありました。なんて不思議なんでしょう! 彼の家族はオランダの北部出身で、彼は一度だけアムステルダムに行ったことがあるそうです。オランダのルーツについて質問すると、アイクはオランダ文化を少し見下すような返事をして、オランダに戻るつもりは一切ないと断言しました。「行ってどうするんだい? 朝にパンとチーズを食べて、10時にビスケット1枚と一緒にコーヒーを頂いて、正午に温かい昼食を取れとでもいうのかい?」と言って彼は笑いました。面白いことに、本国オランダに住むオランダ人たちも、オランダ文化とはまさにそのようなものだという反応を示すものです。彼に自分を何人だと考えているか訊くと、「僕はアメリカ人だよ!」と答えました。でも私に言わせれば、アイクは彼が思っている以上によりオランダ人かもしれません。この旅を通じて、ミシガン州ホランドではオランダ文化がたしかに息づいていると感じました。いくつかの地域においては、オランダ本国よりも顕著かもしれません。なにより驚いたのは、(私の知る限りにおいて)伝統の原型が忠実かつ完璧に再現されているということです。オランダに行ったことがなく言葉も話せなければ、オランダ人としてのルーツを実感するのはかなり難しいとは思いますが、ここでは伝統的なオランダの文化が尊重されています(他の文化と一緒に!)。でもこれは、アメリカだから可能なのかもしれません。アメリカ人は誇り高く、愛国心の強い人々として知られているので、仮にそれが主流の文化でないとしても、独自の文化を大切にし、誇らしげに表現する精神が発揮されるのだと思います。その一方、オランダ人は自己顕示欲の低い控えめな気質で知られ、誇示するというよりは、アイクのようにオランダ文化に対して肩をすくめ、見くびる態度を取る人が多いような気がします。もうひとつとても意外だったのは、オランダ文化はこの街と住民のアイデンティティにとって大切な要素であるのに対して、オランダ語はそうではないということです。これもやはりアメリカだからかもしれません。オランダでは他の言語を学ぶのはあたりまえで、少なくも英語、ドイツ語そしてフランス語を学校で学び、言語も文化の大切な一部と考えられています。しかしアメリカでは英語が公用語で世界でも広く話されているため、言語の重要性に関しては違った考え方を持っているのかもしれません。たしかにアメリカでオランダ語を勉強しても、あまり役に立たないとは思います。人々は移住するとき、自分たちの文化も一緒に持っていきます。その文化が生き続けるのか、変わっていくのか、あるいは死に絶えるのかは環境とその人々にかかっているのです。ミシガン州ホランドでは生粋のオランダを体験することは十分可能だと思います(言語は別として)。でも100年後にどうなっているかなんて誰にも分からないですよね。今回この記事で、ホランドのユニークな歴史を探求することができてよかったと思います。いろいろ考えさせられるでしょう? 世界各国における日本文化はどうでしょうか?※1 http://factfinder.
ヤパン号に乗って、エンジニアのハルデスと、海軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトが来日した。ハルデスは日本で最初の船舶修理工場と造船所を設立した。これが後に三菱重工長崎造船所へと発展する。 ポンペ・ファン・メールデルフォールトは、フォン・シーボルトの足跡に続き、長崎に最初の西洋式病院を建設した。さらにポンペの業績はA. F. ボードワン、C. G. マンスフェルト、K. W. ハラタマ、A. C. J. ヘールツに受け継がれ、 近代的な医学教育体系の発達に大きく寄与した。大阪大学医学部の基礎は彼らオランダ人が築いたものである。ハラタマは大阪に化学専門学校の舎密局(せいみきょく)を創立し、そこで薬学と化学を教えた。またハラタマと彼の生徒は、日本で最初の近代硬貨に使用された合金を開発している。洪水から日本を守る 日本政府が招聘したオランダの水工技術者の残した業績は、今でもはっきりとした姿を残している。山がちな日本の国土で繰り返される洪水を食い止めるため、 彼らオランダ人はこの挑戦に立ち向かった。また、近代的な港湾の建設にも力を入れるため、C. ファン・ドールンが最初のオランダ人技術者として日本に招かれた。彼は福島県に安積疏水を開削した。猪苗代湖畔には、ファン・ドールンの銅像が建てられて いるが、この銅像は第二次世界大戦のために供出されそうになったところを地元住民が反対し、現在に至っている。 日本政府の要請を受けて、ファン・ドールンはさらに数名の技師を日本に呼び寄せた。こうして来日したのが、ヨハネス・デ・レイケである。デ・レイケは学位こそなかったが、実地で申し分のない技術を磨いていた。またA.
海外移住【4】在住者が語る、オランダに住んで良かった点、悪かった点(c)Naoko Kurata 第4回は、オランダ在住の筆者が、この国に住んで感じたことをお話ししたいと思います。 オランダ移住のきっかけ 2015年6月にオランダに移住したので、ちょうど一年経ちました。生活の立ち上げで慌ただしくしていたので、あっという間だった気がします。 (c)Naoko Kurata 2015年春に、4年間住んだイギリスの滞在ビザを更新できないことが分かり、さあどうしようかと考えたとき、ふと頭によぎったのがオランダでした。数年前に家族で旅行したときに雰囲気が良かったことと、ユニセフの2007年と2013年の調査で「世界一子供が幸せな国」に選ばれたという記事を読んだことが大きかったです。我が家にも小学生の子どもがいるので、子育てしやすそうな国だということが決定打になりました。オランダに住んで良かった点と、オランダ人の国民性 オランダに住んで良かったと感じられることは、何よりも子育てが非常にしやすい点。子どもに対するあたたかいムードを感じるとともに、親に対して「こうでなくてはならない」というプレッシャーが全くありません。凝ったお弁当を作る必要はないし、共働き家庭も多いので学校行事への親の参加を強制されることも皆無。筆者も子どもも、リラックスしながら学校生活を楽しめています。 そしてこれは個人的な好みなのですが、オランダの街並みはとても可愛らしくて、見ているだけで幸せになります。毎日、子どもの送り迎えで通学路を歩くだけでときめきを感じられるので、とてもラッキーだったなと思います。 そういう街に住むオランダ人は、とても大らかで気さくな人が多いと感じます。特に男性は、共働きのお母さんたちにしっかり仕込まれて(?)いる方が多そうで、非常に結婚相手向きなのではないかと思います。実際にオランダ人男性と結婚している日本人の方に聞いてみても「家事をしっかりシェアしてくれる」とのことでした。仕事に対するスタンスが日本とオランダでは異なることもあり、何よりも家庭第一。仕事のために家族を犠牲にするという概念も全くなさそうです。そんな家庭人向けのオランダ人男性は、逆に言うとあまりロマンチックな恋愛向きの気質ではないかもしれません。筆者の個人的な見解ですが、大らかで気さくな分、女性の心情の変化には疎いような印象があります。自分の意見というものをしっかり持っているので女性に対して譲歩することも苦手で、恋の駆け引きなどもオランダ人男性には求めないほうがいいかもしれません。 一方オランダ人女性は、同性の目から見ても肝が据わったしっかり者が多い印象があります。共に家庭を築いていくには、これ以上ないパートナーになるのではないでしょうか。 こうしてみると、やはりオランダ人は恋愛よりも結婚向きな国民性かもしれませんね。 オランダに住んで大変だった点、日本の方がいいと思う点 オランダに住むことは良いことばかりではなく、不便なことだってもちろんあります。実はオランダは、家庭医制度を採用している国。専門医の治療を受けるためには、必ずかかりつけ医であるホームドクターの診察を受け、紹介状を書いてもらう必要があるのです。予約も取りづらく、ホームドクターに会うまでに数週間待たされることもしばしば。我が家の子どもが水ぼうそうにかかった時などは、病院に診察予約の電話をしたら「水ぼうそうだと親が判断できているのであれば、病院には来ないで自宅で安静にしていて下さい」と言われてしまいました。待合室に来る他の患者さんに感染を広めないための配慮なのだとか。こういう時は、専門病院にもダイレクトに行かれる日本の医療制度は手間がなくていいなと感じます。 ちなみに、上の画像は筆者のかかりつけ医の待合室。可愛くて、まるで一般のお宅にお邪魔したような気分になりました。 オランダ在住者のおすすめ観光スポット オランダ旅行をされる方は、きっと首都アムステルダムを拠点に観光されると思います。もちろんアムステルダムにもアムステルダム国立美術館(Rijksmuseum)や「アンネ・フランクの家」(Anne Frank Huis)、はたまた「飾り窓」(Red Light District Amsterdam)といった緩急多彩な観光地がありますが、せっかくなので他の都市にも目を向けていただけたらなと思います。【筆者のおすすめスポット1】アルクマールのチーズ市場 アムステルダムから列車で1時間弱、オランダ北西部の街アルクマール(Alkmaar)では、毎年春から夏にかけて数か月間の毎週金曜日の朝10時から12時半、何世紀も昔から伝わる伝統的な方法でチーズが取り引きされる様子が公開されています(2016年は3月25日~9月30日の開催)。 この通称「アルクマールのチーズ市」(de kaasmarkt van Alkmaar)は、ワーフ広場(Waagplein、オランダ語で計量広場)で計量係や運搬係などが昔ながらの方法とコスチュームでチーズを取り扱う様子が見られます。チーズといえば、オランダの名産品のひとつ。広場いっぱいに並べられたチーズは壮観なので、予定が合うならおすすめしたい場所のひとつです。【筆者のおすすめスポット2】ロッテルダム観光 アムステルダムから電車で南西に約1時間10分、オランダ第二の都市であるロッテルダムも外せない観光スポットです。郊外にあるユネスコ世界遺産の「キンデルダイク」(Kinderdijk)の風車群もおすすめですが、街中をただ散歩しているだけでも驚きの連続です。昔ながらのオランダの面影を残すアムステルダムに対し、第二次世界大戦で都市部を破壊されたロッテルダムは、ユニークな近代建築の宝庫。上の写真の右は通称「キューブハウス」(Kubuswoning)で、1984年に完成した集合住宅です。今でも実際に人が住んでいるのだから驚きですね! 一室は見学者用に公開もされています。そしてその奥にそびえたっているのが、キューブハウスと同時期に建設されたマンションの「ブラークタワー」(Blaaktoren)。建物の上部がとんがり帽子の様になっているのが特徴で、オランダ語で「鉛筆」(Het Potlood)という愛称もあるそうです。宇宙船のような外観の建物は、2014年秋にオープンした「マーケットホール」(Markthal)。食べ物に関する小さなブースが沢山あり、室内なのに市場にいるような錯覚に陥ります。けれど買い物をするだけではなく、横に気軽なイートイン・スペースがある店舗も多いので、一人旅のランチにもうってつけです。美味しい食べ物を味わえ、壮大な近代建築も堪能できるマーケットホールはロッテルダムの新名所になっています。 英語が通じやすい国だからこそ、オランダ語であいさつ 英語を母国語としない国の中では、世界で二番目に英語力が高いというデータもあるオランダ。病院の医師や公立小学校の先生、果ては街のスーパーのレジスタッフまで流暢な英語を話してくれるので、まだまだオランダ語が発展途上な筆者は何度も彼らの英語力の高さに助けられています。オランダ人自身が自国語をマイナー言語だと自覚しているので、外国人や一般の観光客がオランダ語を話せなくても仕方ないよね、と全く意に介していません。けれども、だからこそ簡単な挨拶くらいはオランダ語でしたいですよね。「こんにちは」の「Hallo」(ハロー)、「ありがとう」の「Dank je wel」(ダンキェヴェル)、「さようなら」の「Tot ziens」(トッツィーンス)を言うだけでも、オランダ人のこちらに対する印象がぐっと良くなるような気がします。レストランで美味しいものを食べたら「Lekker」(レッカー=美味しい)と言っても喜んでくれるかもしれません。(c)Naoko Kurata 在住者から見たオランダ、いかがでしたでしょうか。TABIZINE読者のみなさまのオランダに対する興味が、少しでも高くなれば嬉しいです。 [Photos by Shutterstock.
日蘭交流の歴史幕開け - オランダ船漂着 1598 年6月のある晴れた日の午後。ロッテルダムの港では、5隻の船が長い航海の途に就こうとしている。目的地はモルッカ諸島、別 名スパイス・アイラン ド。そこで胡椒など様々なスパイスを調達し、更にその先にある銀の王国“日本”を目指す。大砲や鉄砲で武装した5隻の船は、北海の荒波に乗り出した。その直後、乗組員たちはもう一つの重要な任務を知ることになる。それは、南米やアジアの各地に散らばるポルトガルとスペインの拠点を襲撃し、敵軍に可能な限りの打撃を与えることだった。大航海時代、どの勢力も生き残りをかけた熾烈な戦いを避けることはできなかった。 この航海は歴史の1 ページに刻まれる出来事となった。今から数えること400年前、1隻のオランダ船が初めて日本に漂着した。 1598年6月27日にロッテルダム港を出港した5隻の船団のうち、生き残ったたった1隻、それがリーフデ(慈愛)号である。リーフデ号は1600年4月19日、ついに異国の地を見たのだった。船団のうちの1隻、ヘローフ(信仰)号は、マゼラン海峡にさしかかる前にロッテルダム港に引き返していた。他の3隻はと言うと、ブライデ・ ボートスハップ(福音)号はスペインに、そしてトラウ(信義)号はポルトガルに襲撃され、ホープ(希望)号は嵐に襲われ海に沈んで行った。 1600 年4月19日、豊後の国さしふ佐志生(大分県臼杵市)の沖はいつもと様子が違っていた。疲れ切った姿の巨大な帆船が、碇を下ろし横たわっている。 佐志生の人々は、惨めな姿のオランダ人 - そこには少なくとも1人のイギリス人が含まれていた - を難破船から助け出し、その一方で、珍しさのあまり、船内から運び出せるものを全て持ち去った。リーフデ号は19門の大砲と、大量の鉄砲、火矢、砲弾を積んでいた。最初は110人いた乗組員も、航海を終えた時にはたった24人が生き残るのみとなっていた。その中には、後に八重洲さんとして知られるヨーステン・ファン・ローデンスタイン、そして三浦按針ことイギリス人のウイリアム・アダムスがいた。リーフデ号の船尾木像は、オランダの有名な哲学者エラスムスをかたどったもので、これは現在、東京国立博物館に展示されたいる。 時の権力者徳川家康は、漂着したオランダ船に多大な興味を示 した。船に載まれていた武器が、一番の目当てだった。リーフデ号が運んできた武器は全て没収さ れ、ヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスは大坂、次いで江戸に上るよう命じられた。そこで2人は、ポルトガル語の通訳を介して取り調べを受けることになる。運良く彼らの返答は家康の気を良くし、臼杵で被った損害も補償された。日本に残った乗組員のほとんどは、その後貿易に携わったり、日本人女性と結婚 している。この漂着者たちは、地図や航海術、造船術の知識、さらには西洋諸国の戦況に関する情報など、非常に役立つものを握っていた。そのため幕府はウィ リアム・アダムスとヤン・ヨーステンを重用する。そして、領地や屋敷、幕府の相談役としての地位を彼らに与えた。東京に今でも残る按針通りや東京駅の八重洲出口という地名から、2人の漂着者の過去を今でもうかがい知ることができる。彼らの忠誠がもたらした最大の成果は、幕府からオランダに発行された朱印状、つまり通商許可証である。しかしその特権を行使するのは1609年まで待つことになる。漂着から9年、ようやくオランダ船が平戸に入港し、日蘭貿易が本格的に始まる。 徳川家康がオランダ人を重用したのには、もう一つの理由があった。その頃、家康はキリスト教弾圧に本腰を入 れ始めていた。カトリック系のキリスト教に改宗した熱狂的な信者たちが、幕府の権威を脅かしていた。そこで“紅毛人”つまりオランダ人の知識に幕府が目を付けたのである。プロテスタント系のオランダ人は、目的は貿易だけであり、キリスト教布教には一切関わらない方針だった。この時期のオランダ人の日本漂着と、それに続く幕府との信頼関係の構築は、まさに時節を得ていた。 こうして、日本とオランダの関係が幕開けを迎えることとなった。日蘭関係の萌芽 ポ ルトガル人が日本に到着したのは1543年。日本にとってオランダは、最も付き合いの長い西洋国ではない。中国や朝鮮、台湾などアジアの国々との関係に至っては、当然のことながら更に時代を遡る。徳川幕府の鎖国時代において、日本との貿易を許されていたのは、オランダと中国のみだった。鎖国時代は 1641年から1853年まで続く。この200年間、オランダは唯一の西洋国として無二の地位を確立した。オランダは、自国はもとよりヨーロッパ各国の化 学、医学、知識、産物、兵器などを、長崎湾に浮かぶ扇型の人工島“出島”を通じて日本に紹介する。それと引換えに、オランダは日本の品物や知識を西洋の世界に輸出し、富を築いた。両国にとって出島は、“新しい世界への窓”以上の大切な意味を持っていた。 これ以降の日蘭関係は大きく 五つの時代に分けることができる。東インド会社が平戸の商館で活躍した1609年から1641年。出島時代の1641年から 1853年。明治維新前から第二次世界大戦前の1853年から1940年。第二次世界大戦中の1940年から1945年。そして戦後から現在に至る五つの時代である。平戸オランダ商館時代 (1609-1641) 徳川家康を初代将軍とし、徳川幕府が成立したのは1603年。既に家康は、貿易を許可する朱印状をオランダに与えていた。朱印状は リーフデ号漂着から生き 残った乗組員に託され、彼らが日本のジャンク船でパタニ(現タイ)に到着した1605年、ようやくオランダ側の手に渡った。朱印状を受け取ったのは、リーフデ号の生存者クアーケルナーク叔父である、オランダ東インド会社の艦長マテリーフだった。オランダ東インド会社(VOC)は、その数年前の1602年に 設立されている。それまでアジア各地に散らばっていた小規模なオランダの貿易会社を、一つの強大な組織にまとめたのが東インド会社だ。多くの船を一斉に集め商船団を組み、世界の貿易を一手に掌握することを目指していた。また、世界で最初の株式会社としても知られている。しかし、東インド会社は単なる貿易会社ではなく、オランダ政府は外国政府と通商関係を結ぶ権限も与えていた。二回目に発行された朱印状では、幕府はオランダが日本のすべての港に入港できる許可を与えており、貿易を強く奨励する意が読み取れる。この朱印状は現在、オランダのハーグ国立中央文書館に保管されている。 実際にオランダ船が日本の港に入港し、将軍の意に添うことができたのは1609年。その年、最初の東インド会社の公式船団2隻が平戸に到着した。そしてオレンジ公マウリッツ王子からの国書が受け渡され、日本とオランダとの貿易が初めて正式に認められた。ジャック・スペックスは、平戸オランダ商館の初代館長に任命されている。九州の北西の端に位置する平戸は、中国や台湾との貿易に有利な立地である。が、残念ながら当のオランダ人は、平戸に商館が置かれたことをそれほど歓迎しなかった。なぜなら、裕福な商人のほとんどは、平戸ではなく長崎周辺に住んでいたからである。 オランダ人は漂着して以来1641年までは、自由に外を出歩くことができ、日本人との接触についても何ら制限を受けていなかった。オランダ人は平戸に鋳造所を建設し、井戸の掘削も行っていた。日本人の職人を雇い入れた時には、彼らの技術の高さに感嘆したという。しかし、日本における最大の目的であるはずの貿易はというと、あまり順調ではなかった。アジアにある他の東インド会社からの船が、計画通り日本に到着していなかったこと、そして東インド会社は中国に商館を持っていなかったため、日本で最も需要が高かった生糸を十分に供給することができなかったことがその理由である。この問題を解決するため、オランダ人は積荷を満載したポルトガル船を襲うという手段に出た。当然ポルトガル人これに反発し、オランダ人の海賊行為に対する抗議を幕府に申し入れた。その結果、幕府は日本領海内での積荷略奪を禁止した。 朱印船貿易がさかんになる一方で、幕府は“南蛮人”および“紅毛人”ら外国人との接触に対し、にわかに規制を強化した。1614年、 幕府はキリシタン禁令 を発布し、日本で布教活動をする宣教師や一部の有力なキリシタンをマカオに追放した。禁令は厳しく実行され、多くのキリシタンが殉教の死を遂げた。また、 地下活動に入った者もいた。続く1621年には、日本人が許可なく外国船に乗り込むことが禁止され、やがて海外に渡航することも全面的に禁止された。 1639年には、外国人を父に日本人を母に持つ混血児たちが、日本から追放された。その中には平戸のオランダ商館長ファン・ナイエンローデの娘もいた。彼女はバタビア(現在のジャカルタ)に流されている。一度日本を去った混血児らは、日本の家族と連絡を取ることさえも許されなかった。親子の絆を引き裂く、 非情な裁きである。このように追放された混血児たちが、故郷恋しさのあまり絹の着物地にしたためた“ジャガタラ文”と呼ばれる手紙が、平戸郷土観光館に展示されている。こしょろという女性が書いた手紙も、ジャガタラ文の一例である。1657年になると幕府は規制を緩め、家族の近況を書き記した“音信”を送ることを許可した。コルネリア・ファン・ナイエンローデも、平戸に住む家族に向けて音信を送っている。こちらも平戸郷土観光館で所蔵されている。 ポルトガル人を日本人から隔離するために幕府が出した結論は、人工島の建設だった。これが出島の始まりである。1636年、ポルトガル人は出島に住居を定められた。彼らの出島暮らしは、島原の乱において、キリシタン反乱軍幇助の容疑で国外追放を命じられる1639年まで続くことになる。この戦いでオランダ人は幕府側について戦ったが、結果は散々であった。が、オランダ人はこの痛手を無駄にはしなかった。ポルトガル人を追放しても今まで通り日本に輸入品を供 給できるから、ここは一つオランダ人に任せてくれと、幕府を粘り強く説得した。 ポルトガルに雨が降れば、オランダにも小雨が降る。これは、あるオランダ人艦長の名言である。ポルトガル人が追放され、出島は主人を失った。オランダ人を役人の目の届くところに置いておきたい幕府は、これで格好の囲い場所を得た。1640年、幕府はオランダ人を出島に隔離するためのもっともらしい理由を見つけた。当時、平戸のオランダ商館には、火災から商品を守るため石造りの倉庫が2棟あった。商館長のフランシス・カロンはヨーロッパの習慣に倣い、倉庫の破風に“Anno Christi 1640”、つまりキリスト生誕から1640年と記した。この一件が災いとなり、オランダ人はいよいよ出島に移転させられることになった。幕府はオランダ商館の取り壊しを命じ、オランダ人は1641年、平戸を後にし長崎港に浮かぶ出島に居を移した。以来、日本との接触が許された西洋国は唯一、オランダのみ となった。出島時代(1641-1853) 出島へのオランダ商館移転は、当初はオランダ側に厳しい状況を強いると思われていたが、幸いにも結果はその逆と出た。出島の面積は約 1万5千平方メート ル。アムステルダムにあるダム広場とほぼ同じ広さである。オランダ人は日本にとって世界への窓としての役目を担うようになった。西洋の科学や諸物がオラン ダ人の手を通じて日本に紹介され、“蘭学”として花開いた。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは間違いなく、蘭学の発展に寄与した最も有名な人 物 だろう。シーボルトは日本人の学者に、西洋の医学や薬学、その他文化的に価値の高い知識を教授した。また、たくさんのオランダ語が日本語に借用されるようになった。その中でも“ビール”は、日本人の生活に最も溶け込んでいるオランダ語と言えるだろう。 幕府は日本人と外国人との接触に対し、制限を次第に強化した。オランダ人もまた厳しい規則に縛られ生活していた。出島から無許可で外出することは許されず、女性が出島に立ち入ることも禁じられた。ただし円山の遊女だけは、出島で一夜を過ごすことを許されている。例外は、“江戸参府”だけで、この時ばかり はオランダ人も出島の外に出ることが公式に認められた。彼らは一年中暇を持て余していたようだ。ただしオランダ船が入港する8月から10月の間は、出島の 住人も忙しい日々を送った。貿易船から積荷を下ろし、荷を振り分けて、商人に売り渡す。そして船は再び日本の品物を満載し、東インド会社の豪商のもとに 去って行く。故郷からの便りが届くのもこの時期だった。 オランダ商館が出島に移転して以来、幕府が課した規制が痛手となり、平戸 時代ほどの利益を上げることはできなくなっていた。出島では、商品の値段は事前に決められ、売れ残った商品はすべて持ち帰らなければならなかった。規制は確かに厳しかったが、そんな中でも東インド会社はある程度の収益を上げており、 生糸と引換えに金、銀、銅、樟脳などを日本から輸出していた。更に、漆器や陶磁器、茶も、日本からバタビアやヨーロッパに送り出していた。 窮屈な生活を強いられていた出島でも、赴任を希望する東インド会社の商館員が絶えなかったらしい。その最大の理由は、幕府が公式な貿易の外に、個人的な貿易を一定額まで認めていたことにある。このサイドビジネスのおかげで、商館員はかなりの副収入を手にすることができ、その額は通常の年俸の20倍にも達することがあったようだ。当時の商館長の年俸は1200ギルダーだったが、3万ギルダーもの副収入を懐にしていたという記録が残っている。 18世紀に入ると、日本とオランダのそれぞれの政治的な理由から、出島での貿易が不振に陥った。幕府は、貿易船の隻数や金銀交換レー トなどについて、新たな規制を相次いで設け、それらはオランダ側の利益を圧迫した。また同じ頃、ヨーロッパではフランス革命が勃発し、一時は負け知らずだったオランダも制海権 を失うほどになっていた。1795年から1813年の間、出島に入港できたオランダ船は僅か数隻。その結果、出島に居住していた東インド会社の商館員たちは、収入源を断たれてしまった。商館長ヘンドリック・ドゥーフはやむをえず、食料や衣服などを日本人の好意に頼っていた。しかし、ドゥーフはここで時間を無駄に過ごしていない。彼は蘭和辞書の編集を手がけ、日本の役人とも良好な関係を保っていた。なによりもドゥーフは出島にオランダの旗を掲げ続けた。出島の三色旗はその頃、地球上ではためく唯一のオランダ国旗だった。蘭学 - オランダに学ぶもの 16世紀の万国共通語はポルトガル語である。オランダ人と日本人が最初に会話をしたときも、ポルトガル語の通訳が介在していた。ポル トガル人が日本から追放されると、次第にオランダ語が日本における第一外国語の地位を獲得し、オランダ語を使えることが通訳や翻訳者にとって不可欠の条件となった。“阿蘭陀通詞”と呼ばれた通訳は、世襲制に基づいており、多い時にはその数150人にのぼった。彼らは通商、外交、そして文化交流の事務役をつとめた。また、阿蘭陀通詞は西洋科学を広める上でも重要な役割を果たしていた。通詞の能力が向上するにつれて、西洋の国々が非常に高い水準の科学的知識を有していることを、日本の為政者たちが認識し始めた。 1720年、八代将軍吉宗はキリスト教関係以外の洋書の輸入禁制を緩和する。それから間もなく学 術洋書が日本に輸入されるようになっ た。オランダ語を通じ て学ぶ学問は“蘭学”と総称され、杉田玄白など高名な学者が卓越した成果をおさめた。玄白は1771年から1774年にかけて、ドイツ人クルムスの『解剖 図譜(Ontleedkundige Tafelen)』を翻訳し、『解体新書』として世に出ることとなった。『解体新書』の翻訳で直面した様々な苦労を、杉田玄白は『蘭学事始』にまとめてい る。この2編の書物は、日本の蘭学塾における必須の書となった。シーボルトが始めた長崎の鳴滝塾、江戸の芝蘭堂、そして緒方洪庵が創立した大坂の適塾など が、蘭学塾として名を馳せるようになる。そこでは医学はもとより、天文学や数学、植物学、物理学、化学、地理、用兵術など様々な学問が幅広く学ばれた。 日本に西洋科学の知識を伝えることが、図らずも東インド会社商館員の重要な役目となった。そこでオランダ側は、学術専門の商館員を日 本に送り込んだ。カス パル・スハムベルゲンの医学は、カスパル流として日本人に踏襲された。ヘンドリック・ドゥーフは、フランソワ・ハルマの蘭仏辞典に基づいて、蘭和辞典『ハルマ和解』を監修した。さらには詩をたしなむ程、日本語も上達した。コック・ブロムホフは、日本の工芸品や日常品などを収集した。しかし、最も有名な“オランダ”の学者と言えば、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトをおいて他にない。 1823年に来日したフォン・シーボルトは、日本の国家や民族、文化についてできる限り多くの情報を収集するという使命を帯びていた。植物学、医学、薬学 に博識だったシーボルトは、日本において最も尊敬を集めた東インド会社の商館員となった。彼は長崎近郊の土地を授かり、鳴滝塾を創立した。そこで患者を治療し、医学や生物学を教え、植物園を構えた。多くの学者や患者、武士と接触できる立場にあったため、日本の生活にまつわる様々な品物を収集することが可能であった。シーボルトは薬草に関する知識を授けた礼に、日本人蘭学者からある物を受け取っている。それは葵の紋が染め付けられた着物だった。また秘密裏に、国外持ち出し禁止の日本地図も入手していた。これらは当時、外国人が所有することを禁じられていたものばかりである。これが発覚し、シーボルトは 1829年にスパイ容疑で国外追放及び再入国禁止の処罰を受けることになる。“シーボルト事件”として知られるこの事件によって、彼は妻と娘おいねを残して日本を去った。後においねは日本最初の女医として、素晴らしい功績を残した。シーボルトが日本で収集した膨大なコレクションは、現在オランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されている。江戸参府 -オランダ人、日本を旅する 毎年行われた江戸参府は、オランダ人と日本人の役人が公式に面会する機会を与えた。日本各地の大名と同様、出島のオランダ商館長も江戸に上り、将軍に謁見するよう命じられていた。そして、風説書と呼ばれる諸外国の政情を著した報告書の提出が義務づけられていた。 江戸参府は、商館長を先頭に、商館医と商館員数名、それに加えて阿蘭陀通詞と長崎の役人も随行し、一団はおよそ150人から200人で構成された。全行程を終えるには約3ヶ月を要した。“紅毛人”の行列には行く先々で好奇の眼差しが浴びせられ、江戸参府は通算およそ170回も行われた。長崎から下関までを陸路で、そして兵庫もしくは大坂の港まで船で渡り、東海道を東に進み江戸に至った。静岡県掛川市には、江戸参府の帰途に客死したオランダ商館長ヘンミィの墓が今でも残っている。 江戸で将軍に謁見するには、数々の高価な贈物が必要とされた。遠眼鏡、西洋医学の道具や薬、大砲、地球儀、さらにはシマウマやラクダ、サルなど南国の珍しい動物なども贈られている。西洋科学の書物も、特に喜ばれた。1638年に将軍に贈られた銅製のシャンデリアは、外交問題の解決に一役買った。この大燈篭は現在も、徳川家康を奉る日光東照宮に安置されている。この大燈篭の御礼に、将軍はオランダ人に高価な絹の着物を下賜した。“阿蘭陀”美術 オランダ人の出島での生活や江戸参府の様子は、日本人絵師を大いに刺激した。出島の暮らしぶりを描いた長崎絵は、長崎を訪れる旅行者の最適な土産物となっ た。またオランダ人の姿が陶器の絵柄にもなった。オランダから運ばれてきた絵画や絵本なども、絵師に創作のアイデアを与えていた。司馬江漢は一度も見たことのないオランダの風景を描いているが、その絵にはオランダに無いはずの山が描かれている。 川原慶賀は、フォン・シーボルトの個人的なアシスタントとし て、19世紀初期の出島の様子を絵筆で克明に記録している。これら長崎絵やオランダ人の絵柄をあしらった陶器、その他オランダにまつわる工芸品は、長崎県立美術博物館、長崎市立博物館、神戸市立博物館で見ることができる。花の時代の終わり - 江戸時代末期 19世紀は世界の政治情勢が大きく変化した時代である。オランダは海の覇権を失い、代わりにアメリカとイギリスが勢力を拡大していた。アヘン戦争 (1839-1842)でイギリスは中国に対し、国際貿易港として5つの港を開港し、香港を割譲するよう要求した。日本を追放されオランダで研究生活を送っていたフォン・シーボルトは、オランダ国王ウィレム2世にこう進言した。将軍に直ちにアヘン戦争の結果を知らせ、鎖国を撤廃するよう促すべきである、と。ウィレム2世がシーボルトの助言に従い書いた国書は1844年、正式な儀式を経て長崎奉行を通じ幕府に手に渡された。幕府はオランダ国王の配慮には感謝したものの、助言に従うことは拒否した。しかしオランダはドンケル・クルチウスを出島の商館長として送り込み、再度将軍に開国を勧告した。1852年、クルチウスは、アメリカが武力で日本に開国を迫ろうとしている、と将軍に忠告をした。しかし幕府は最後まで忠告に耳を貸すことなく、1853年のペリーの黒船来航を迎えてしまった。日本の近代化 1853 年のペリーの黒船来航を境に、日本は鎖国を捨て、急速な近代化に向かうこととなった。それから50年の間に、日本は封建社会から近代的な西洋デモクラシーの社会へと急変した。オランダ人はそれまでの特権的な役割は失ったが、両国の親密な関係に変わりはなかった。開国当初、日本と諸外国との公式な折衝はすべてオランダ語で行われていた。つまり日本人とアメリカ人との最初の会話にも、オランダ語が仲介役を果たしていたわけである。しかし、日本人は世界の列強の力関係が変化していることを察知した。そして西洋諸国に追いつこうと、幕府はアメリカとヨーロッパに使節団を派遣した。それと同時に、幕府は近代化の礎を築くため、西洋の専門家や学者を日本に招いた。造船、海軍、医学、薬学、土木の分野で、オランダ人は日本の近代化を支援することになった。 ペ リー来航の直後、将軍はドンケル・クルチウスにオランダから蒸気艦を派遣するよう要請した。それを受けてオランダ政府は、日本に軍艦スンビン号を献上した。この船は後に“観光丸”と改名される。航海術や砲術、更には造船術の教育を目指して、長崎に海軍伝習所が設立された。スンビン号の艦長だったファビウスと乗組員が、最初の教師として教壇に立った。あの勝海舟も生徒として名を連ねていた。観光丸の成果を見届けてから、幕府は2隻目の蒸気艦の発注を決定する。この船はヤパン号という名で日本に到着したが、“咸臨丸”と改名された。この船が、勝海舟をアメリカに運んだ船である.
「教育移住」ってどうやるの? 可能性のある国や手続き
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実際に移住して感じるオランダはどうなのか?「子どもが世界一幸せな国」の世界的な働き方とは | ワンモア・ベイビー・ラボ「18」といえば、オランダの社会を語る上で欠かすことのできない数字です。そう、1more Baby応援団のオランダ視察をまとめた「18時に帰る」という書籍でもタイトルにしたように、オランダでは、多くの人が18時には家路につき、家族との時間や自分のプライベートの時間を大切にする、という生き方をしていることが分かりました。つまり、非常にシンプルなことですが、早く仕事を終えて帰宅するという習慣や、それを実現できる社会の仕組みがあることが、「子どもが世界一幸せ」と言われる所以でもあります。これが国を象徴するような働き方であり、生き方である。そんなことを示す数字であると感じました。 では、次に「180」とは何を示しているかお分かりでしょうか? 実は、こちらも同じくオランダの社会を表す重要な数字でもあります。 世界一国際的な国 この数字は、現在オランダの首都アムステルダムに住んでいる人の国籍や出身国の数です。一説には190カ国とも言われています。2017年現在、国連加盟国は196カ国とされていますので、この数字からもオランダがいかに国際的な国で、多国籍の人が集まっているのかお分かりになると思います。 実際に、2016年にアムステルダムでは「180」というタイトルの大きな写真展が開かれました。展示されたのは、アムステルダムに住む180ヶ国の住民のポートレートでしたが、ここまで多様性にあふれている国だと言うことを、改めて写真展に並んでいるポートレートを見て実感したものです。 日本から見る外国は、「海外」というだけでどの国も国際的に見えるものですが、オランダでは、オランダ人でさえも「アムステルダムは国際的な都市である」と認識しています。 実は、これはオランダが「小国」であるということを自覚しているからこそ、自ら作り上げた環境でもあります。オランダのアムステルダムがこのような国際的な都市になったこと、そしてオランダ自体が多くの移民や難民を受け入れるようになったのは、ここ数十年の話ではありません。その昔、16世紀から始まったことだとも言われています。 昔から自由と寛容の国と言われていたオランダは、中東やヨーロッパの他の国から肉体的に、あるいは精神的に、思想的に迫害を受けた人が流れ着いた国でした。 ご存知のようにオランダの人口は1700万人で、国土は日本の九州ほどの広さしかありません。このように「小さい国」であることを誰よりも自覚しているのが、オランダの国民自身です。例えばヨーロッパのハブ空港としてスキポール空港が発展していたり、交通や通信インフラが整備されていたり、そして、あらゆる人種が住んでいるのも決して偶然ではなく、ある意味意図的に、政府の戦略として、これらを推進してきた歴史があります。その理由は前述の通り、「小国であるがゆえに、自国だけでは生きられない」、つまり「他国と繋がったり、ハブになることで自国を発展させる」ということが明確に意識されてきたからです。 現在のオランダの話で言うと、イギリスのEU離脱に際しての企業誘致が盛んです。実際に日本の企業でも、オランダに移転を決定したところもすでにあります。ヨーロッパの医薬品を統括する機関の移転も決定しました。また、現在オランダへの移住はアメリカ人が最も多いということも、オランダが実は世界トップクラスの国際的な国である、ということを物語っているかもしれません。 子どもの育ちの環境も国際的 さて、そんな国際的な国でもあるオランダですが、「世界一子どもが幸せな国」と言われているのはご存知の通り。そこで今回は、そんなオランダへ日本から移住した今井さんファミリーに、オランダでの生活について、伺いました。 今井さんファミリーは、アラフォー世代で二人の男の子(9歳、6歳)の4人家族。移住の理由は“子育てのため“というわけではなく、「学生時代に海外に長いこと住んでいまして、日本に戻ってからも常に仕事は海外を相手にしていました。そういった経緯から、家族でいつか海外に住んでみたいと漠然と考えていました。」と、今井さん。そして、いくつかの地を当たったのちに、ご自身の仕事との兼ね合いから、オランダへの移住を決定したそうです。 「教育移住かと言われると、それも多少はありますが、『家族で海外に住もうぜ!』という軽い感じで、もし嫌なら『一年で戻ればいい』と割り切っていました。」とのこと。 しかし、実際に住んでみるとその環境の良さにすっかり家族が順応し、今ではすっかりオランダでの生活を楽しんでいるそうです。 移住後、1年半が経過して、お子さんの学校生活でもいくつか驚くことがあったと言います。 「子ども達を現地の学校に通わせて一年半ぐらい経ちましたが、日本と真逆の教育環境で、我が家の子ども達にはピッタリでした。算数などは日本と比べると格段に進みが遅いですが、逆に世界で何が起こっているのかなどは、間違いなくオランダの子ども達の方が知っていると思います。長男も日本の小学校に通っている時では考えられないような、世界情勢の話題を食卓で出すようになり、『そんなこと学校で話してるんだ!』と夫婦で何度も驚きました。」 また、小学校の最終学年に当たる8年生に送る卒業プレゼントを用意するために、経費を自分たちで集めたのには驚きでした。当時、彼は5年生だったのですが、クラスで一日だけレストランを開業し、親に招待状を出したんです。そして、本物の現金で商売をし、その売り上げで8年生へのプレゼントを用意したのです。どうやってお金を儲けるかを考えさせ、それを実際に行動に移させる。これはすごく子ども達の刺激になったと思います。日本なら『現金がなくなったら問題』ということでブレーキが掛かりそうなイベントですが、こちらは全く問題ありません。こういったお金についての学びは、オランダは進んでいると思います。」 また前述した通り、世界一国際化が進んでいるオランダですが、そんなことを実際に感じるエピソードを聞かせてもらいました。 「小学校の放課後に、学年問わず色々な子ども達が混じり合って遊んでいるのが印象的です。15時に学校が終わって、小さな校庭でサッカーをして遊んでから帰るのですが、いつも色々な年齢の子ども達が一緒にサッカーをしています。そして、みんなやさしいです。次男は3年生ですが、転んで痛がると、それこそサッカーをやっている子ども達全員がよってきて『大丈夫か?』と頭を撫でてくれます。 日本では同じ学年の中の良い友達とばかり遊ぶ気がしますが、オランダでは逆にそれは稀なのかなと思います。また公立校でも色々な国籍の子ども達がいます。長男のクラスにもオランダ以外に5つぐらい違った国籍の子ども達がいます。公用語はオランダ語ですが、英語ができる子もたくさんいるので、自然と英語の力も伸びています。」 この辺りは、なかなか日本では想像しにくい環境かもしれません。 国際的な働く環境とは しかし、オランダではこうした環境が日常でもあります。また、今井さんの住んでいるエリアの小学校のサッカー対抗戦が平日にあった際には、子どもの数の倍くらいの保護者が参加していて、とてもびっくりしたそうです。実は、今井さんはサッカー関係のお仕事をされていますが、こうしたことは日本では見たことがないと話されていました。 これは、ワークシェアが発達していたり、テレワークや在宅勤務など、働き方の多様性がすでに確立されているオランダならではのことかもしれません。そして、このような働き方が確立されたのは、子どもや家族との時間を優先することが、この国に住んでいる人たちの共通認識としてあるからです。 今井さんのお話で印象に残ったのは、こうしたオランダの現状を踏まえて、「やはり仕事の進め方は効率がいい気がします。上下関係がないこともあるのでしょうが、他人の目を気にしないで、やることをやったら次に進む、または帰宅する。日本が一番変えなければならないことが、こっちでは標準なのだと思います。」ということでした。 働き方改革というと、日本では制度面が重視されがちです。もちろん、それも非常に重要ですが、今井さんの指摘にあるような、意識面での変革も同時に大事にしなければならないことかもしれません。 働き方に関しては、こうした意識が実は世界標準なのかもしれません。世界一国際的な国、オランダ。なかなか学ぶところが多い気がします。 __________________________________ 個人プロフィール 吉田和充 ニューロマジック・アムステルダム /クリエイティブ・ディレクター・保育士 19年間大手広告代理店でクリエイティブ・ディレクターとして勤務したのち、 2016年、子どもの教育環境のためオランダへ移住。 400本以上の大手クライアントのキャンペーン/CM制作などのクリエイティブを担当 食品の地域ブランド開発、化粧品商品開発、結婚式場のブランディング、 田んぼでのお米作り、食品マルシェを核とした地域コミュニティ開発 飲食店や通販事業会社の海外進出プロモート、 皮革製品ブランドのブランディング、企業SNSアカウントの運用など担当。 書籍出版、ニュースサイトなどでの執筆記事、講演など多数。 現在は、オランダと日本の企業を相互につなぎながら、マーケティング、ブランディング 広報広告、インスタレーション制作、イベントなどクリエイティブにまつわる領域で活躍。 【書籍】 18時に帰る~「世界一子どもが幸せな国」オランダの家族から学ぶ幸せになる働き方~ www.
フリーランスとしてオランダに移住した理由とその実際
実際に移住して感じるオランダはどうなのか?「子どもが世界
0を切る不真面目な学生だったこと、またGREも準備不足でひどいスコアで、アメリカの大学院8校に応募しましたが箸にも棒にも掛かりませんでした。もう1年しっかり準備して再挑戦してもよかったのですが、GPAの改善は望めず、またGREなど研究に直接関係のないところへの努力にモチベーションが湧かず、どうしようかと途方に暮れました。このころには学費などの借金が800万円ほどあって、修士での研究もうまくいっていない上に留学先も決まらず、先が見えない不安がとても大きかったのを覚えています。オランダの週末の午後。晴れた日に昼から飲むビールが格別でした。あるとき情報を集めるためにネットを見ていると、『Nature Careers』というサイトでヨーロッパでの博士課程学生の求人が多く出ていることを見つけ、ヨーロッパに応募してみようと思い立ちました。アメリカへの出願との大きな違いは、研究室単位の応募であること、また通年求人が出ていることです(注:ヨーロッパの中でもイギリスはシステムが異なると聞いたことがありますが、詳しくはわかりません)。研究室単位の応募ですので、採用はボスの一存で決まります。なので研究への熱意さえ伝えられれば、十分チャンスはあると思いました。そこに後の指導教官となるJohn Kennis先生が求人を出していて、非常におもしろい研究テーマで博士課程の学生を募集していました。さっそく必要書類の(CV)と推薦者2名の連絡先を準備して、Eメールで応募しました。CVに付けるカバーレターには特に時間をかけ、こちらの熱意が伝わるようにしました。すぐにJohnから返信があり、何通かメールをやり取りしました。そんな中、同じ京都大学にいらっしゃっる中曽根祐介先生という方から突然電話がありました。中曽根先生と私はそれまで全く面識がなかったのですが、中曽根先生はアムステルダムへの留学経験がありJohnとお知り合いのようでした。どうやらJohnから中曽根先生に「日本人のこんな奴が応募してきた。同じ大学にいるようだからどんなやつか会ってみてくれ」といった連絡が行っていたようです。その数日後に中曽根先生の前でプレゼンをし、夜は飲みにつれて行っていただきました。すっかり意気投合し、Johnにもよいフィードバックを送ってくださったようでした。中曽根先生には感謝をしており、今でもよくしていただいています。その後、JohnとSkypeで話し、好感触を得ました。Johnはスキンヘッドで見た目はイカついのですが、とても物腰がやわらかく、寛容的です。私のつたない英語を最後まで聞いてくれます。留学前にラボと街を直接見ておきたかったので、その旨を伝えると快諾してくれて、ラボツアーやセミナー、また他の先生方とも会う時間を作ってくれました。アムステルダムを訪問したのは11月で暗く寒い時期だったのですが、街の活発な雰囲気をとても気に入りました。4年間も住むので、街を気に入るかどうかは重要な要素だと思います。大学内の研究設備は素晴らしく、またグループメンバーもとてもフレンドリーで、そこで研究をしたいと思うようになりました。訪問の最後に正式にオファーをもらった時には二つ返事で受諾しました。その時のJohnの笑顔は今でも忘れられません。実は同じ時期にドイツの研究グループにも同様に応募していて、面接を経てオファーをもらっていました。そちらも魅力的な環境だったのですが、最終的にはJohnの人柄とアムステルダムの街に惹かれてオランダ行きを決断しました。私は博士課程での研究室選びは指導教官との相性がとても重要だと思っているので、素晴らしい指導教官に出会えたのは幸運でした。私の場合は求人サイト(『Nature Careers』の他に『Academic Positions』や『Science Careers』などもあります)から受け入れ先を見つけましたが、オランダの博士課程への応募には他にもいくつか方法があります。研究室のホームページやTwitterで求人を出している場合もありますし、周りで多かったのが、修士課程のうちにインターンシップなどでラボに半年ほど滞在し、そのまま同じラボまたは近いラボに博士課程の学生として採用されるというものです。採用する側も最低4年、計1500万円ほどの給料を保証しないといけないので、素性が知れている人を採用するのは安心感があるのだと思います。ちなみにオランダの修士課程では本腰を入れて研究をしないので、修士課程のうちに研究成果があれば多少のアドバンテージになります。私は修士課程の間に筆頭著者での論文は出せませんでしたが、共著論文が2本と国際学会での口頭発表が3件あったので、若干有利に働いたと思っています。オランダの博士課程博士号取得後のパーティーにて、恩師のJohn Kennis先生と。採用後にビザの準備などを進め、2014年2月にアムステルダム生活を開始しました。オランダの2月には珍しい、快晴のすがすがしい日でした。その後は一息つく間もなくすぐに研究を開始しました。Johnはまずはゆっくり休めと言ってくれたのですが、早く研究がしたくてウズウズしていました。同僚はみんな親切で、装置の使い方などを丁寧に教えてくれましたし、プライベートでも「アムステルダム」を教えてくれました。4年間を通してオランダの博士課程生活を楽しめたのは、素晴らしい同僚の存在があってのものだったと思います。日本では「終電で帰る」または「ラボに泊まる」という生活をしていた私も、オランダではそうはいきませんでした。ラボがある建物は午後10時に完全ロックされて外にも出られなくなるので、必然的に午後10時までに帰ることになります。そもそもほとんどの人が午後7時前には帰り、週末は働きません。おまけに年に合計2か月分ほどの有給があり、みんなしっかり消化します。郷に入っては郷に従えの考え方を採用し、私も平日は早く帰ってバーに飲みに行ったり、夏には長期休暇を取ってバイクでヨーロッパ一人旅をしたりしました。オランダスタイルでの生活を通して、休むことのメリットを実感しました。これはかなり大事なことで、しっかり休めるようになったことが、オランダ留学で得た一番のスキルかもしれません。労働時間が短いオランダ人ですが、生産性はとても高いです。周りを見ても、いい論文を多く書く同僚がたくさんいました。私が感じたのは、横のつながりの大切さです。オランダ人のオープンな気質も関係しているのかもしれませんが、ラボ間の垣根が低く、装置の貸し借りや知識の共有を気軽に行えます。また1つのラボで全て完結するというよりも、各ラボがそれぞれの強みを持っていて、それを持ち寄って一緒にいい研究をするという考えが浸透しているように感じました。高い生産性にはいろんな要因があるでしょうが、この協力体制は一端を担っていると思います。一方でハードワークは苦手なようで、ここぞという時にハードワークができるのは日本人の大きな武器だと思っています。オランダの博士課程では授業の履修義務はなく、一部のティーチングアシスタントの時間を除いてほぼすべての時間を研究にあてられます。オランダでは博士課程の期間は4年が標準で、私がいた生物物理の分野では、筆頭著者論文を4本以上準備できたら博士論文執筆のGoサインが出る場合が多いです。4年で終える必要はなく、ボスのグラントが許す限りは延長できますし、自分のタイミングで博士号を取ります。学位取得前に一旦企業に就職して働きながら博士論文を用意し、就職から数年後に博士号を取る人もいます。博士号の審査員は国内外から5名ほどを指名するのが一般的で、私はドイツから2人、オランダ、フィンランドとチェコから1人ずつの5名に依頼しました。審査会は、候補者と審査員が正装に身をつつんだ伝統的な形式で執り行われます。審査会ではよっぽどのことをしない限りは合格する半ば形式的なものです。かつてベロベロに酔っぱらった候補者が審査会に現れたことがあったらしく、彼はめでたく不合格になったようですが、それは例外中の例外です。無事に審査会に通るとその場で博士号を授与されます。夜は友人や同僚、お世話になった先生方を招いて、レストランやバーを貸し切ってパーティを開きました。パーティは深夜0時くらいに終わりましたが、そのあとは特に仲のよかった同僚たち数人と朝まで外で飲み明かしました。オランダでの生活2014年ワールドカップでのパブリックビューイング。オランダとサッカーは切り離せません。英語で日常生活が送れるというのはオランダ生活の大きな利点だと思います。非英語圏において、オランダは世界で一番英語が通じる国らしいです。私の体感的にはオランダ人はほぼ全員英語が話せるという印象です。大学内もそうでしたが、アムステルダムの街はとても国際的で、ヨーロッパを中心に世界中から人が集まっています。異なる文化的背景を持つ人達と話すのはとても刺激的でした。またオランダには研究者はもちろん、様々な分野で活躍する日本人もたくさんいます。理系研究者だけでなく、文系の研究者、プロの芸術家やサッカー選手・コーチなどと話すことも多く、いろんな刺激をもらいました。また企業の駐在員の方も多く、オランダにいながら日本人のネットワークも大きく広がりました。在オランダの日本人というだけで一種の仲間意識が芽生え、日本にいたら知り合わなかったであろう方々とたくさん出会えたのは大きな財産です。オランダはサッカー大国で、私のようなサッカー好きにはたまらない環境が整っています。アムステルダムだけでもアマチュアの町クラブが何十個とあり、各クラブがバー付きの立派なクラブハウスと4-8面ほどの芝のピッチを持っています。子供からシニアまでリーグが設定されていて、自分のレベルと都合に合わせてプレイできます。私はオランダ人チームと日本人チームの2つに所属していました。晴れた日曜日の午後にサッカーをプレイして、その後に「第3ハーフ」と称してビールを飲むのが至高のひと時でした。また、ヨーロッパの中央付近に位置し、大きな空港もあり、旅行には非常に便利な立地にあることもオランダのよいところでした。おわりにオランダへの博士課程留学を通じて、研究者としても人間としても大きく成長できたと感じています。英語で日常生活や研究生活が送れること、他のヨーロッパ諸国と比べて博士課程での給料が高めなこともあり、オランダは博士課程留学の穴場だと思います。2021年5月3日著者略歴本谷友作(ほんたにゆうさく) 2018年アムステルダム自由大学理学部物理学科博士課程修了。2018年よりコーネル大学博士研究員。ヒューマンフロンティアサイエンスプログラム(HFSP)フェロー。 連絡先:yusaku.
ヨーロッパへの研究留学 〜オランダでの博士課程〜コーネル大学本谷 友作私は京都大学で工学の学士号と修士号を取得後、2018年にオランダのアムステルダム自由大学のJohn Kennisグループで物理学(生物物理専攻)の博士号を取得しました。現在はアメリカのコーネル大学でポスドクをしています。本稿では、4年間にわたるオランダでの博士課程の生活を、オランダ留学を決めた過程とともにご紹介したいと思います。私自身、海外での博士課程留学について情報を得るのに苦労しました。私の個人的な経験が、これから博士課程留学を考えている方の参考になればと思い、本稿を執筆させてもらいました。オランダ行きが決まるまで「博士号を取るのになぜオランダを選んだの?」とよく聞かれます。結論から言えば3つ理由があり、(1)海外で研究がしたかったこと、(2)博士課程で給料を得られること、(3)ボスやオランダのアムステルダムという街との相性がよいと思ったことです。原子核工学を専攻していた大学3年生の時に科学者になろうと思い、大学4年生で研究室に配属されました。そのラボには海外からのお客さんが多かったのですが、私の当時の英会話力ときたら「How are you? 」がなんとか言えるくらいの悲惨なものでした。科学者になるには日本国外の研究者ともやっていく必要があると強く感じ、彼らの考え方や研究文化を学ぶため、また自身の英語力を鍛えるために、修士号取得後の博士課程での留学を思い立ちました。当初、ポスドクとして海外に行くことも考えましたが、修士の後には研究対象を生命科学に変えようと思っていたことと、さらに経済的・精神的に博士課程の学費を払うのがキツかったこともあり博士課程での海外留学を決めました(ほとんどの先進国で理系の博士課程学生は給与を得られます)。当時はなぜか研究留学といえばアメリカだと思い込んでいたため、まずはアメリカの大学院に応募しました。アメリカの博士課程の応募時期は年に1回、またGREなどの試験結果や学部時代の成績(GPA)が必要です。私はGPAが3.
S. A(ユー・エス・エー) (United States of America(ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ)の略) と略される場合もある。 アメリカ大陸のうちの北アメリカにある国の一つである。国土が広く、面積は日本の約25倍である。経済力がとても高く、アメリカは国内総生産(GDP)が世界1位である。 アメリカの国データ 首都:ワシントンD. C. (ワシントン・ディーシー)(英語:Washington D. ) 面積:約983万 km2 人口:約3億2717万人(2018年) 主に用いられる言語:英語 地理及び気候 アメリカ合衆国には、東西にそれぞれ山脈がある。北アメリカ大陸の西には南北に長く険しい、ロッキー山脈 (英語:Rocky Mountains(ロッキー マウンテンズ)) がある。北アメリカ大陸の東には、アパラチア山脈 (英語:Appalachian Mountains(アパラチア マウンテンズ)) がある。そして、その2つの山脈のあいだに、プレーリー (英語:Prairie) あるいは グレートプレーンズ (Great Plains) と呼ばれる、中央平原などをはじめとした平原 (草原) が広がっている。このロッキー山脈が西経100度の近辺で気候に大きく影響を与え、西経100度近辺から西側では乾燥し、砂漠もある。 西側の乾燥地域での農業は、小麦など乾燥に強い作物が栽培されている。また、東部にも少し存在する乾燥地域では、畜産で肉牛なども飼育されている。 一方、東側では雨が多い。アメリカ中部の、中央平原やグレードプレーンズあたりの農業では、大豆やトウモロコシなどが栽培されている。ロッキー山脈より西側の、アメリカ合衆国の南部や南東部は温帯である。そのため、南部の農業ではサトウキビや米、バナナ、コーヒー(豆)、カカオなども栽培されている。 話をロッキー山脈に戻すが, ロッキー山脈は環 (かん) 太 (たい) 平 (へい) 洋 (よう) 造 (ぞう) 山 (ざん) 帯 (たい) (英語:Ring of Fire) という、太平洋のまわりに多く連なっている山脈の一部でもある。一応述べておくと、日本列島も環太平洋造山帯の一部である。 アメリカ合衆国は, 国土の大半が温暖な地域である。それゆえ、農業大国であり、農業輸出国としては世界最大級である。であるからして、アメリカ合衆国は「世界の食料庫」と言われている。アメリカの農業は、輸出を前提に大量生産している。そのため大規模な農家が多く、日本に見られるような小規模な農家[注釈 1]は少ない。 小麦及び大豆、とうもろこし、綿花で、アメリカ合衆国は世界最大の輸出国である。国際的な穀物の流通大手の企業のいくつかがアメリカ合衆国にあり、それらアメリカ合衆国の穀物流通の大企業である商社を穀物メジャー(こくもつメジャー)と言う[注釈 2]。穀物メジャーは, 世界の穀物の流通や販売に対して, とても強い影響力を持つ。また、農業関係の企業には, 農産物の生産にとどまらず、農産物の加工や流通, 農業機械の生産や販売、農産物や農薬、肥料などの販売などといった農業に関するさまざまな産業をまとめて、アグリビジネス (英語:agribuisiness) といい、そのような事業をしている企業も多い。 アメリカの機械農業 アイダホ州のジャガイモ畑の例。センターピボット (英語:Center pivot irrigation) 方式を採用しているため, 農地が円形になる。「センターピボット」とはスプリンクラーを円形に動かしながら自動的に水をまく方式のこと。 left アメリカ合衆国の農業は、大きな農地を、大型の機械を使って、少ない人手で耕作する農業である。種を蒔く際や農薬をまく際は、自家用の飛行機を使うこともある。また、バイオテクノロジーを利用し遺伝子を組み替えて改良した、新種の品種の農作物を栽培することにも、アメリカの農業 (の生産者) は積極的である。 西部の内陸部 アメリカ合衆国の西部の内陸部は、雨が少ないため乾燥している。このため、作物の栽培には向かず、家畜の放牧による飼育などに利用されている。 地中海式農業 カリフォルニア周辺は、沿岸部であるがゆえに雨がやや多い気候である上, 温暖である。よって、カリフォルニアでは、オレンジやブドウ、野菜などが生産されている。 北アメリカの植民地の歴史 もともとは先住民として北アメリカ大陸には ネイティブ・アメリカン[注釈 3] や イヌイット などの先住民族が住んでいた。 15世紀も末の1492年に、コロンブス(英語:Columbus)(イタリア語:Colombo)が、ヨーロッパ人としては初めてアメリカ大陸を発見した。その後、17世紀にはイギリスなどのヨーロッパ人が移住を始め、彼ら移民が植民地を作った。ヨーロッパからの移民は、原住民から土地を奪い、開拓をしていった。住む場所を奪われた先住民族は人口が減っていった。ヨーロッパ系移民である白人が先住民族を支配した。ヨーロッパ人の開拓は、東海岸 (大西洋側) から始まり、西 (太平洋側) へと進んでいった。 その後、アメリカ大陸では、労働力のため、アフリカ大陸から黒人が奴隷として連れられてきた。特に北アメリカの南部で、綿花などの畑の労働力として多く連れられた。現在のアメリカの黒人の祖先の多くは、アフリカから奴隷として連れられた黒人である。 現在のカナダにあたる地域はフランスによって開拓され、アメリカ合衆国にあたる地域 (の大部分) はイギリスによって開拓された。そのため, 現在のアメリカやカナダの文化にイギリスやフランスの影響がある。言語を例に挙げると、アメリカの公用語は英語である。しかし、カナダでは英語とフランス語[注釈 4]が公用語である。また宗教では、多くの人がキリスト教を信仰しており、宗派はプロテスタント (英語: Protestantism, Protestant) が多い。 人種 アメリカへの移民 アメリカの野球におけるメジャーリーグで活躍する日本人 奴隷とは別に、外国からアメリカ合衆国へ移り住んだ移民(いみん)も多い。建国前より、イギリスからの移民が多いが, イギリスとは別のヨーロッパ諸国からも多くの移民がアメリカに移り住んだ。アメリカの人口の約6割の人種がヨーロッパ系である。(アフリカ系の)黒人も人口の1割程度である。また、アメリカ合衆国の人口の約1割がメキシコやカリブ海諸国などからのヒスパニック系 (後述) の移民である。 ヒスパニック メキシコはスペインによって侵略され、開拓された。カリブ海の諸国もスペインによって開拓された国が多い。それ故、これらの国 (メキシコ以南) ではスペイン語が公用語である。これらアメリカ大陸でスペイン語を話す地域からの移民をヒスパニック (英語:Hispanic) という。野球などスポーツなどの選手では、黒人やヒスパニックも多い。 サラダボウル アメリカ合衆国の白人の多くは、先祖が前述したようなヨーロッパから移住した移民である。よって、イギリス系の白人がもっとも多い。アメリカ合衆国の政治を握る人種は、長らく白人に限られていた。 アメリカ合衆国は多民族国家であり、「人種のサラダボウル」と言われる。 19世紀のリンカーン大統領の時代 (1860年ごろ) に奴隷制が廃止され、黒人などの奴隷は解放された。だが、その後も権利が白人とは同じではなく、公共施設や乗り物などでは、黒人は白人とは違う扱いをうけたりなど、黒人への差別はつづいた。黒人に白人と同じ公民権が公民権法によって与えられたのは1964年である。それまでは黒人と白人の権利は対等ではなかった。 2009年に選挙でアメリカ合衆国では初めての黒人の大統領である、バラク・オバマ大統領が就任した。しかし、現在でも白人と黒人との間で経済的な格差があると指摘されている。 工業 世界で粋をゆく最先端技術をもつ。 #地理及び気候で述べたように、アメリカ北東部には五大湖がある。そして、その五大湖近辺は鉄鉱石の産地である。そして、その南のアパラチア山脈近辺では石炭が採掘されていた。この鉄鉱石と石炭を用いて、アパラチア山脈ピッツバーグで鉄鋼業が始まった。さらに、それらを用いた自動車産業が五大湖にほど近いデトロイトで始まる。これを機として、1970年頃に至るまで、世界で最も大きな工業国だった。 ところが、1970年頃になると, 第二次世界大戦から立ち直ったドイツや日本などの製品に国際的な競争力が弱まっていく。そして, それらの国の企業がアメリカに進出する動きが強まる[注釈 5]と、必然的に工場を設置しようと試み始める。それまでに多くの工場が乱立していた北東部には、人件費の面でも、スペースの面でも、もはや工場を設置する理由はなかった。そして、それらの理由を解決できる南部に新しい工業地帯が形成される。これを「サンベルト[1]」と呼ぶ。 そして、1980年代からバイオテクノロジーや情報通信産業, 航空宇宙産業などがサンベルトで発展していった。この頃から、北東部の鉄鋼業などは衰えが一層激しくなる。現在、アメリカの工業はサンベルトにおける自動車産業やバイオテクノロジー、情報通信産業、航空宇宙産業とサンフランシスコ郊外の先端技術産業 (世界有数が故に「シリコンバレー」と呼ばれる) に代表されていると言える。 アメリカの産業 デトロイトの位置。デトロイトのすぐ北の湖が五大湖。 赤色部分がサンベルト地帯。 国際宇宙ステーション(International Space Station)(略称:ISS)。アメリカの航空宇宙局NASAが中心となって, 世界の先進国(日本を含む)で協力して開発した。 カリフォルニア州の位置。 シリコンバレー。 大量生産 アメリカ合衆国の工業は世界各国の中でも、大量生産を早く成功させた。工作機械などの発明された当時は新型だった生産機械を積極的に活用し、生産工程に機械を積極的に取り入れ、それによって品質のばらつきの少ない工業部品を大量に作ることが出来るようになった。工作機械などによる生産の機械化により、部品の品質のばらつきが小さくなることによって組み立てなどの工程では分業しやすくなった。そのため流れ作業のベルトコンベアーのような生産手法を用いて大量生産をするようになった。 さらに、部品ごとのばらつきを小さくするため、工業部品の規格化が積極的に行われた。こうして、規格大量生産(きかく たいりょうせいさん)と言われる生産手法がアメリカ合衆国で普及し、自動車産業などで積極的に導入された。一度に大量に製品を作ることで、部品1個を作るのに掛かる費用を安くすることができるため、製品そのものの製造費を安価に抑えられる。アメリカの工業は、次第にヨーロッパとの経済競争にも勝っていき、アメリカは工業大国となった。 アメリカの生活では, 生産が増えることで, 消費も増えることになり、アメリカの消費生活は大量生産を前提にするものになっていった。 アメリカ合衆国の貿易は輸入額が輸出額よりも多く、貿易赤字である。機械類や石油、自動車の輸入が多い。二酸化炭素の排出量は世界の中でも比較的多い。地球温暖化を防ぐための排出量の削減には大統領がドナルド・トランプに代わって以降あまり積極的ではなくなり、2019年にはパリ協定から離脱した。 多国籍企業 アメリカ合衆国の大企業には、海外に多くの子会社や関連企業を持つ多国籍企業(たこくせききぎょう)(英語:multinational corporation, MNC)も多い。 大手コンピュータ企業やインターネット通信会社、ファストフード店、洗剤の生産で知られる企業など、日本にも多くの多国籍企業が進出している。 世界の石油の流通は、いくつかの大企業に強く支配されている。その石油の流通を支配している大企業を「石油(せきゆ)メジャー」または「国際石油資本(こくさいせきゆしほん)」と言う。 貧富の格差 生活水準は、貧富の格差が大きい。スラム(Slum)が発生している都市も多い。富裕層 (金に余裕のある世帯) は、都市の中心部の老朽化した建物から、郊外の広い家に住むようになり、都市の中心部では家賃が下がる。すると、そこに貧困層が入ってくるようになり、スラムを形成するため、様々な問題が発生している。これをインナーシティ問題という。 近年では, そこの再開発が進められてオフィスビルや高層マンションなどの建物が次々と建設され、市街地が高級化されている。そこへ富裕層が再び住むようになっているが、これをジェントリフィケーションという。その裏では、再開発のために追い出されてしまった貧困層のホームレス化などの問題も発生している。 交通 自動車社会 モータリゼーションが進んだ現在のアメリカでは自動車が普及しており、多くの高速道路が主要都市を繋いでいる。 自動車を前提としている住宅街などでは, 住宅地と商店街が離れている場合もあり、自動車が無いと買い物にも行けずに生活が成り立たない場合もある。また、アメリカのスーパーなどでは、日本よりもサイズが大きいものが販売されているので、大量の荷物を運ぶために自動車は欠かせない。 都市と都市との間が離れているので、アメリカでは空港も多い。 文化的な影響力 衣服のジーンズやTシャツは、もとはアメリカでの労働者の衣服である。 工業や農業、軍事などの、アメリカの世界各国への影響力の強さと同様に、{{ruby|娯楽などの文化などでも影響力が強い。アメリカの映画産業は、カリフォルニア州のロサンゼルス(Los Angeles)市にあるハリウッド(Hollywood)が著名であるが、ハリウッド映画は世界的にも影響力が高い。なぜなら、アメリカの映画は世界中に輸出されている。映画のストーリーなども, 輸出することを前提にしてどこの国にでも人気になりやすいような単純化したストーリーである場合が多い。 また、ファストフード店はアメリカ発祥の文化である。日本にも出店しているある大手ファストフード店の本社はアメリカ合衆国にある。 音楽のジャズ(jazz)は、アフリカ音楽とヨーロッパ音楽の両方の文化をもとにして、アメリカで生まれた音楽である。 スポーツの野球は、まずアメリカで普及し広まった。そのため、アメリカの影響を強く受けた国 (主に太平洋に面した国) で人気な場合が多い。また、バスケットボールもアメリカを発祥(はっしょう)としたスポーツである。 ショッピングセンターやコンビニエンス・ストアも、元をたどればアメリカに行きつく。ただしコンビニエンス・ストアは, 日本に進出された後、日本で独自の発展をして、今では日本のコンビニの方式がアメリカなどにも輸出されている。また、コーラもアメリカから広がった飲料である。 英語 産業革命のころから、イギリスの国際的な影響力が強くなり(多くあった植民地を英語で支配したため)、そのころから英語が国際的な公用語になりだした。 江戸時代生まれで明治時代の偉人である福沢諭吉は、江戸時代には日本はオランダ経由で洋書を輸入していたので、洋書を読むためオランダ語を学んでいた。だが、明治時代になり海外の情報が多く入ってくるに連れて、英語が国際的に普及していることを知り英語を学び始めたという。 現在では、国際会議などの国際的な場での公用語は英語が多い。これらの理由は、アメリカの経済力によるものだけではない。英語はヨーロッパのイギリス以外の言語の、フランス語やドイツ語などと比べて、文法が簡単なので学習しやすい。そのような事も, 英語が普及した理由の一つであろう。 ともあれ、英語が国際的に普及していることもあり、アメリカやイギリスでの出版や報道などの言論は、国際的にも普及しやすい。 その他 アラスカとハワイも, アメリカ合衆国の領土である。 五大湖とは、スペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖の5つである。五大湖のうち、最も北及び西にあるのがスペリオル湖である。さらに、スペリオル湖が最も面積が広い。スペリオル湖の南にミシガン湖がある。 アパラチア山脈の南部にある半島、アメリカ南東部にある半島は、フロリダ半島という。 フロリダ半島とメキシコとの中間あたりにある大きな川が、ミシシッピ川である。また、ミシシッピ川の周辺の平原が、中央平原である。 アメリカ南部の海のメキシコに囲まれた湾は、メキシコ湾。 ロッキー山脈は、カナダ西部からメキシコまで続いている。 カナダ カナダの都市、モントリオール。首都ではない(首都はオタワ)。 世界で2番目に国土が広い(1番はロシア)。 カナダ(Canada)の最大の貿易相手はアメリカ合衆国である。カナダの農業は、アメリカと比べると小規模であるが、小麦の栽培が盛んである。 公用語は英語とフランス語である。国民の多数はイギリス系の住民であり, 国民の多数は英語を話す。ケベック州(フランス語:Le Québec・英語:Quebec)ではフランス系の住民も多く、フランス語が使われている。 カナダの国データ 首都:オタワ(Ottawa) 面積:約990万km2 世界2位である なお1位はロシア 人口:約3400万人 主な言語:英語及びフランス語 主な宗教:キリスト教 主な農産物:小麦(春小麦) 気候は、亜寒帯 (冷帯) と寒帯に属している。気候が寒いため、人口密度は低い。 17世紀にフランスに植民地にされ, 19世紀にはイギリスの植民地にされた。人口分布は東部に集中している。先住民はイヌイットや、ネイティブ アメリカンである。現在のカナダ経済では、ヨーロッパ系の白人が経済の中心である。ケベック州ではフランス系の住民が多く、カナダからの分離独立を掲げる運動も多い。1999年にはイヌイットが多く住む北部地域にイヌイットの言葉で「自分たちの土地」を意味する名の ヌナブト(Nunavut)準州( じゅんしゅう) が発足した。 農業では, 小麦の生産がさかんである。品種は春小麦(はるこむぎ)である。春小麦とは、春に種を蒔き秋に収穫する小麦のことである。一方、冬に種をまき、翌年の夏に収穫する小麦を冬小麦と言う。春小麦は、冬を越す前に収穫できるので、寒い地域でも育てやすい。そのため、カナダなどの寒い国での小麦の栽培は、春小麦である。 また, 五大湖の周辺地域では酪農(らくのう)がさかんである。 鉱産資源にも恵まれており、ニッケルや鉄鉱石, 石油, 亜鉛, 銀などを産出する。アメリカ合衆国との経済的な結びつきも強く、アメリカ合衆国及びカナダ、メキシコの3カ国は北米 (ほくべい) 自由 (じゆう) 貿易 (ぼうえき) 協定 (きょうてい) (略称:NAFTA(ナフタ)) () を結んでいる。 沿岸部が共に世界有数の漁場である太平洋及び大西洋であるが故に、水産業も盛んである。特にニシンやタラ、さけなどの漁獲量が多い。 森林も多く, 林業も盛んである。そして、パルプや紙の生産も多い。国土の3分の1をタイガと呼ばれる針葉樹林が占めている。 中米 メキシコやキューバ、ハイチなどのカリブ海諸国のことをまとめて、「中米(ちゅうべい)(英語:Central America)」もしくは「中央アメリカ」などと呼ぶ。「中央アメリカ」と言っても、アメリカ合衆国の内陸部のことではないので間違えないように。 これら中米の地域の多くは、16世紀頃からスペインに侵略され植民地にされた国が多く、従って、中米諸国の公用語ではスペイン語を公用語にしている国が多い。また、主な宗教はキリスト教である国が多い。また, 主な人種もスペイン系の白人との混血 (「メスチソ(Mestizo)」と言う) である国が多い。アメリカ合衆国やカナダと異なり、中米諸国では、あまり白人そのものの数は多くない。 工業は, 国にもよるが, あまり高度な技術を要する工業は発達していない。特に、カリブ海の小さな島国では、農業以外の産業として観光業などを主な産業にしている国もある。経済的には、アメリカやカナダと比べると大変貧しい。治安も非常に悪い。 カリブ海の諸国 メキシコやキューバ、ブラジル、アルゼンチンなどには、スペインやポルトガルなどのラテン系ヨーロッパ人が入植し侵略し開拓していったため、これらメキシコやキューバなど地中海諸国及び南アメリカ大陸の諸国を合わせ「ラテンアメリカ」と呼ばれている。 ラテンアメリカに対し、アメリカ合衆国とカナダには、アングロサクソンが多いので、アメリカ合衆国とカナダのことを「アングロアメリカ」という。 カリブ海(Caribbean Sea)諸国の気候は熱帯である。アメリカ合衆国南部にあるフロリダ半島も地理的に近く、フロリダ半島の気候も、熱帯である。 メキシコ メキシコのかつての文明の遺跡、ティオティワカン(Teotihuacan)。世界遺産になっている。 古くからの文明の遺跡などが残っている。かつてメキシコの地には、13世紀頃までマヤ文明 (英語:Maya civilization) があり、16世紀頃までアステカ(Azteca)文明があった[注釈 6]。アステカ文明はこの地に植民を始めたスペイン人によって滅ぼされた。それ以降、メキシコは長らくスペインの植民地だった時代がある。 経済的には、アメリカやカナダと比べるとあまり豊かでなく、そのためアメリカに不法入国する者も多い。メキシコの公用語はスペイン語である。他の多くの中米諸国も公用語にスペイン語を用いていることが多い。アメリカ合衆国やカナダと比べると、メキシコの治安はとても悪い。麻薬組織など違法集団の勢力もメキシコでは強く、米国などに麻薬などが密輸されている。 メキシコの国データ 首都:メキシコシティ(Mexico City) 面積:約190万km2 日本の約5倍 人口:約1億1000万人 主な言語:スペイン語 現在の経済では、アメリカやカナダとの経済的な結びつきも強く、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコの3カ国は北米自由貿易協定を結んでいる。 NIES(ニーズ) メキシコはNIES(ニーズ)と呼ばれる, 新興工業経済地域(しんこうこうぎょうけいざいちいき)の1つである。 中米諸国の中で見れば、メキシコでは工業が盛んである。20世紀前半より工業化が進んでおり、自動車や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。 キューバ カリブ海にある島国の一つ。1959年に革命 (キューバ革命(Revolución cubana)) により社会主義国となって、キューバはソビエト連邦の陣営に加わった。そして、アメリカ合衆国と対立していた。革命の指導者は、カストロやチェ・ゲバラなどの人物である。 革命後のキューバの経済では、ソビエト連邦の計画経済を手本にしたため、キューバの経済は市場経済を否定し、それまでの企業は国営化された。冷戦終了後の今でも社会主義国である。ソ連の崩壊後、ソ連からの援助が無くなったため経済が悪化している。 キューバの農業は サトウキビ の生産がさかんであり、砂糖が重要な輸出品になっている。砂糖以外にあまり輸出できる産業がなく、モノカルチャー経済に陥っている。 社会主義の為、医療費や教育費は無料である。社会主義が故に経済格差は少なく、治安は良いとされる。 キューバの国データ 首都:ハバナ(Habana) 注意:バハマでは無い。バハマは別の国。バハマもカリブ海にある国。 面積:約11万km2 カリブ海の西インド諸島では最大面積の国 人口:約1100万人 パナマ(Panama) パナマには, 「パナマ運河(Panama Canal)」という運河がある。太平洋と大西洋をより短く結ぶために建設された。かつてはアメリカ合衆国が管理していたが、1999年にパナマに返還された。 また、運河があるため、海運業がさかんである。パナマでは海運業を盛んにするため、船舶に関する税金が安くなっており、そのため外国の海運会社が船の船籍をパナマで登録することも多い。このような船をべんぎ ちせきせん( (英語:flag of convenience ship))という。パナマは便宜置籍船の船籍が置かれる国として有名である。 パナマの国データ 首都:パナマシティ(Panama City)。スペイン語ではシウダ・デ・パナマ(Ciudad de Panamá)。 面積:約7万km2 人口:約340万人 主な言語:スペイン語, 英語 その他の中米諸国 その他にも、中米には多くの国がある。 ジャマイカ ドミニカ共和国 グレナダ ハイチ 国民の90%が黒人である。かつてフランスの植民地だった。 コスタリカ グアテマラ エルサルバドル ホンジュラス ニカラグア バハマ などの国がある。 (※ 範囲外: )これらの国の多くは治安が非常に悪く、国民の多くは貧しい。 脚注 出典 注釈 ^ ここでいう「小規模」は日本の標準的な生産者及びその一家のみで消費する量を生産する農家や、それに加えてある程度を出荷するといった農家を指す。反対に、アメリカの「大規模」農家は生産者が消費するためではなく、販売することに徹したものである(詳細は後述)。 ^ 例:カーギル (Cargill Inc.
アメリカの家〈1〉イギリス・オランダ・ドイツ・スペインの
留学の充実度が決まる!?海外大進学中の住むトコ事情③
中学校社会 地理/北アメリカ州 - Wikibooks中学校社会 地理/北アメリカ州では、北アメリカ州の地理について説明します。 北アメリカ アメリカの地形 ロッキー山脈の位置。茶色い部分がロッキー山脈。北アメリカ大陸の西部にあり、南北に長い山脈がロッキー山脈である。南北の色が異なっているのは国の違いによるもので、黄色がカナダであり、うす緑色がアメリカ。 アパラチア山脈の場所。茶色い部分がアパラチア山脈。なお、カナダとアメリカの国境周辺にある湖で、アパラチア山脈の北西のほうにある湖は五大湖(ごだいこ)と言われる湖である。 環太平洋火山帯。なお, 青線は海溝。ロッキー山脈は環太平洋造山帯の一部。 カナダ、アメリカ合衆国、メキシコからパナマにいたる北アメリカ大陸の国と、キューバなどカリブ海の国から成る。アメリカ合衆国やカナダは日本の約25倍以上の国土をもつ。 北アメリカ大陸は南北に長い。気候に関しても、赤道近くの南部と北極に近い北部では大きく異なる。北極に近い北部は寒く、寒帯または亜寒帯に属する。カナダや (アメリカ合衆国の) アラスカが寒帯または亜寒帯である。アメリカ合衆国の南部及びメキシコなど、赤道付近の大陸南部は暑く、熱帯もしくは温帯である。アメリカ合衆国の南部でハリケーンが発生することも多い。 アメリカ合衆国の気候は、アラスカを除きほとんどが温暖である。また、雨の量は東西の地域で変わってくる。 北アメリカで、最も経済力や影響力が高い国は、(英語:United States of America)(ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ)アメリカ合衆国である。北アメリカ大陸の中だけでなく、世界各国で見てもアメリカ合衆国の影響力は強い。国際的な場での公用の言語として英語が使われることが多い理由の一因は、アメリカ合衆国が公用語として英語を使っているからでもある(無論、かつて世界各地に植民地を持っていたイギリスが英語で植民地支配を行ったという理由もある)。 アメリカ合衆国 アメリカ アメリカの都市ニューヨーク アメリカ合衆国の位置 アメリカのバラク・オバマ前大統領 自由の女神(Statue of Liberty)。 国名は アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく)(英語: United States of America)。アメリカと略されることが多い。U.
多様性を物語るニューヨークの地名アマガンセット(Amagansett)、タッパンジー(Tappan Zee)、ブルックリン(Brooklyn)、リトル・ハイチ(Little Haiti)。全てニューヨークを構成する地域名です。いずれもネイティブアメリカンの言い回しや、押し寄せた移民の言葉をつなぎ合わせてできたものです。 ジョシュア・ジェリー=シャピロ著の「Names of New York: Discovering the City’s Past, Present, and Future Through Its Place-Names (Patheon Books, 2021)」は、そういった名前にまつわるストーリーを紹介しています。 「アマガンセット(先住民の言葉で良い水という意味)」は、ニューヨーク全域に点在していた数多い土着の名前の一つです。かつてはそこに、モントーケット族やレナペ族などが住んでいました。ジェリー=シャピロは、この本の執筆中にレナペ語のクラスを受講したと、4月にニューヨーク公共図書館の聴衆にオンラインで語っています。 彼はこの本の冒頭で、「名前は重要だ」と述べています。「生まれたばかりの子どもの名前をどうしようかと悩んでいる親御さんに聞いてみてください。また、嫌いな名前を背負わされた子どもにも聞いてみてください。(中略)そして、人に付けられた名前がそれほど重要なら、場所に付けられた場合はさらに重要になります。それは、私たちの心や地図の中で、一人の人間の命より長く存続することになるからです」 タッパンジーはハドソン川に架かる橋がある場所で、異文化が重なり合った例を示しています。タッパン(Tappan)は地元のレナペ族の名前から、ジー(Zee)は海を意味するオランダ語に由来します。 ブルックリンは、現在の高級住宅地からは誰も想像がつかないと思いますが、かつては湿地帯であったため、オランダ語の「壊れた土地」からその名前が生まれたとジェリー=シャピロは言います。 ジョシュア・ジェリー=シャピロ(左)。右は彼の著書の表紙。初期のロウワー・マンハッタンからアップタウンを見たイラストが描かれている (Left: © Mirissa Neff.
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